「思い出補正」って言葉、何年か前からよく見かけるようになった。
だいたいの場合、ネガティブなニュアンスで使われてるように思います。
あの映画、面白かった覚えがあるけど、「思い出補正」だよねー。
素敵な思い出は時間が経つにつれて美化されて、実際のところ以上によく思えちゃう。
その実、大したことねえ、みたいなニュアンス。
僕はこの言葉のそういう雰囲気に、なんだか違和感がありました。
特に音楽。
この歳になると、どんどんと「思い出補正」がかかった音楽が増えてくるもので。
曲そのもの、ただそれだけではなくて、
その音楽との出会い、初めて聴いたときの感覚。
聴いた場所の風景、一緒に聴いた人。
作った人のビハインド、ストーリー。
いろんな思い出が音楽にまざって、ひとつになって自分の中にすとんと落ちる。
その価値がとても美しいから、何十年も前の曲がいまだに自分をわくわくさせてくれる。
この感覚って、割とすべてだったりして。
僕は別に評論家でもバイヤーでもなんでもないから、主観100%ですげーと思える曲があれば
それが最高で、たとえば音楽的に優れてないとしてもあんまり関係ないのです。
(もちろん最高に優れてると思って聴いてるけどね)
そんな「思い出補正」をがっつり感じられる音楽が僕にもいくつかあって、こりゃありがたいという気持ち。
聴きたい曲をいつでも取り出せるAppleMusicは便利なんだろうけど、
そういう意味で今の自分の感覚ではあんまり使う気になれません。
新しい音楽を足していくのは、もう少しゆっくり、ちょっとずつでいい。
無駄な前置きが長くなってしまったけど、
フジロッ久(仮)の新しいアルバム、『超ライブ』 がすばらしい、というお話です。
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わざわざ「思い出補正」のくだりを書いたからには、
フジロッ久(仮)というバンドとの間にさぞたくさんの思い出があるのか、というと、そうでもありません。
というか、ほぼありません。
最初に名前を知ったのは大須のレコードショップZOOの、お店の入り口に貼ってあったポスター。
たぶん7,8年前で、最初のアルバム(『コワレル』)のリリースより前のはずだから、
なんかのツアーのポスターだったのかなあ。
バンド名だけ見て、「コミックバンドかなー」と思った記憶が。。。
そこからつい一年ちょっと前まで、聴くこともなかったし、もちろんライブもなし。
じゃあなんだっていうと、聴く自分がそんな感じでも、
この『超ライブ』は、びっしびしの「思い出」感に満ちているのです。
確かにこの一年愛着持ってよく聴いたし、ライブも遊びに行ったし、
それこそいろんな話を友達としたりして、しっかり思い出になっているんだけど。
この感じはそれだけじゃないっす。
僕も日本語ロック・日本語パンクは好きだし、元希さん同様、ブルーハーツは愛しています。
「手がかりは薄い月明かり」「諦めるなんてないから!」って歌詞もすごくうれしかった。
きっと『月の爆撃機』『ブルーハーツのテーマ』をリスペクトして書いたんだろうなーって。
でもやっぱりそれだけでもない。
型にハマらないピースフルな歌もかっこいい。
ありあまるパワーをぶん回す感じのボーカルって大好きで。
直線でもまん丸でもなく、楕円のイメージ。ウィルソンピケットみたいなやつ。
でも(略)
…と、聴きながらいろいろ受け止めようとして結局よくわからなかったわけですが、
自分の好きなものと重なる部分がたくさんあることに加えて、
やっぱり100%主観で音楽をやってることそのもののパワーなのかな。
(もちろん、ご本人たちのことはわからないから、これも僕の主観)
フジロッ久(仮)の歌には、これは作った本人にしかわからんだろうなーとか、
これってめちゃくちゃ個人的な心情だよなあってフレーズがいっぱいあるんだけど、
そういうことをこれだけ前のめりに表現されると、それはもう感覚的に伝わるんだよね。
細かい解釈とかそういう面倒なことはおいといて。
主観100%で投げられた表現を、主観100%で受け止める。
いろんな要素が重なって、強烈な「思い出」感さえ出ちゃう。
これはクサイなー。ロマンチックだ。
と、無性にくどい話になってしまったけど、僕はこのアルバム、大好きです。
来月、このアルバムをひっさげたツアーのライブが名古屋でもあって、すごく楽しみ。
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超ライブ / フジロッ久(仮) について
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ほい、ウーロン茶!
心にもない言葉でお別れです!マザー、ファッカー
空 ビル 手のひら 見えるものと 別の姿